LOGIN朝、律は六時半にセットした目覚ましで起きる。
進路の問題が表面化した頃から多少寝起きは悪くなったものの、基本的に一度のアラームで目を覚まし、寝巻のまま部屋を出て離れのキッチンでグラスに水を注ぎ、そのまま縁側で水を飲みながらしばらくぼんやりとする。そうしていくうちに体が新鮮な空気に満たされて脳みそが覚醒していく。そんな習慣を十三歳くらいから続けている。早起きをして筋トレをするわけでも朝活をするわけでもなく、ぼんやりしているだけで、父には「爺みたいだ」と言われ、蓮には首を傾げられるが、律にはこの習慣がすっかり馴染んでしまっている。唯一、修治だけが「いい習慣です」と言った意味は、律にはまだわからない。
七時を過ぎた頃に律は縁側から立って、水を飲んだグラスを片付け、蓮を起こしに行く。──蓮は律が起こしに行かないと起きない。
からりと蓮の部屋の戸を開けて、頭まで布団をかぶって眠っている蓮のベッドの端に腰かけて律は少し笑う。
「れーん、朝だよ。起きて」
いつものように布団の上からぽんぽんと蓮の肩辺りを叩く律の声は柔らかだ。丸まった布団の塊がもぞもぞと動いて、寝ぐせだらけの伸ばしっぱなしの癖っ毛が半分顔を隠した蓮が顔を出すが、まだ寝ぼけているのもいつものことだ。
「やだ……まだねみー……」
「いいから起きて。朝ごはん、間に合わなくなるよ。朝から父さんに小言言われんの嫌でしょ?」
「それは……めんどー……」
まだはっきりと覚醒しないまま、蓮は律の声に半分自動で反応するように起き上がった。大きなあくびをして、いまにも布団に逆戻りしそうだが蓮は普段から活発なだけあって起き上がりさえすれば大丈夫なことを律は知っている。
律はすんなりと蓮のベッドから立ち、部屋を出ていく。「あとでね」と言い残して。
それから律は洗面所に直行し、顔を洗い、歯磨きをし、自室に戻り制服に着替える。スマホの充電とかばんの教科書類を確認して身支度が終わるころには蓮も着替えを済ましている。玄関を通るには母屋を経由するからかばんを肩にかけ、部屋を出るとちょうどいいタイミングで制服に着替えた蓮がいた。
並んで母屋に向かい、外廊下に面した食堂──和室の大きな座卓で父と律と蓮を含めて十人以上の黒瀬家の住人が食事をする場所なので、食堂という表現の方が的確だと律は思っている──に入ると、数人の男たちが座卓に料理を並べていて、何人かが席について雑談をしている。父は上座におり、律の定位置は父の脇で、その隣は蓮だ。
席順には暗黙の了解のように、いくつかだけ決まりごとがある。修治がいる時は、律の対面は修治になる。いない時は特に決まっていないが、時々、父が誰かを名指しして近くに呼ぶこともある。別に込み入った話をするわけでも説教をするわけでもなく、大家族の父が普段構ってやれない子どもと交流を深めるのと似た類のものだ。
「おう。おはようさん」
父は律と蓮が席に着いたのに気付くといつも通りに声をかけてくる。
「おはよう」
「おはよー」
律は正座して、蓮は足を崩したまま座って返事をすると、父は満足そうだ。この父は豪快そうに見えて、意外と面倒くさい。朝、出かける時、帰宅時、食事などの挨拶をしないだけで怒鳴り声が飛んでくる。決して礼儀作法が正しいとは言えないが、そんなことに口うるさいのは家業の影響かと律は邪推してしまう。
この日の朝食は焼き鮭、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、豆腐とわかめの味噌汁、白米。律の分だけ、父や蓮、ほかの者たちよりもやや量が少ない。男所帯で血の気が余っている者が多いせいか、黒瀬家の食事は毎回ボリュームがあり、律には多すぎる。かといって、食事を残すことを嫌う律は物心ついたころから「多すぎるから少なくして」と言っている。
食事量が少ないから細く、身長も蓮に抜かされるのだなどと父が揶揄ったこともあったが、律は気にしていない。元々、律は蓮よりも運動を好まなく、単に性質の違いだと思っている。
食卓に食事が行き渡り、全員が腰を落ち着けたところで父が「いただきます」というと「いただきます」が響き渡る。朝から賑やかしい。そんな食事が律にとってはずっと当たり前だ。
「若! 今日の晩メシ、なんか食いたいもんありますか?」
静かに律が食事をしていると、対面の下座の方からふと声をかけられた。夕食のメニューの希望はよく聞かれるから珍しいことではない。肉料理がメインになるのは当たり前で、野菜も食べたがる律に自然と声がかかる。
「そうだな……筑前煮、とか?」
少し考えてから律が答えると、下座の方がにわかに賑やかになる。大方、買い物リストでも話し合っているのだろう。──随分とのんびりしているが、彼らは暴力団の構成員である。
食事時は気が抜けるな、などと思いながら律は豆腐とわかめの味噌汁を啜った。きちんと出汁を取ってあり、煮詰め過ぎず味噌の風味がいい。一人暮らしなどができない訳でもないのに、どうして態々住み込みで家政婦のようなことまでしているのだろうと、やはり律には不思議でならない。
「律さぁ、メシ食ってる時にしかめっ面すんのやめよーよー」
両手に味噌汁の椀を持ったままでいると、隣の蓮が手を伸ばしてきて眉間を伸ばしていった。
「……そんな顔、してた?」
「うん。メシくらい美味しく食お?」
「……ん」
律が短く返事をすると、蓮は持ち直した箸を焼き鮭に伸ばす。蓮の食べっぷりは豪快で見ていて気持ちがいい。くすりと笑って、律も椀を置き、食事を再開した。
食後の茶をゆっくりと飲んで、八時半。律と蓮は学校へと向かう。
「ごちそうさま」をして、背中に置いたかばんを取り上げ「行ってきます」と言って玄関に向かう。父や男衆が異口同音に「行ってらっしゃい」を投げてくる。それが律と蓮の朝の日常。*****
九時過ぎ。学校についたらついたで、それはまた騒がしくなる。
律と蓮が教室に入ってそれぞれの席にかばんを置くと、蓮は始業の鐘が鳴るまで律のそばで何気ない雑談を始める。それを心地よく聞きながら時々返事をしていると、勢いよく横槍が入ってくる。
「黒瀬ぇ! 昨日の英語のプリント見せてぇっ!」
「あー! 待て、それ俺も! 俺も見せてほしいっ!」
「ねえ、それ私もいい?」
口々に律に群がってくる同級生たちはいつものことだ。
「あーもう、お前ら朝からうるせえな! 律に群がるな!」
かばんの中から英語のプリントを探している律にお構いなく蓮が一番やかましく怒鳴り散らすのも、普段通りだ。毎回、同級生たちがさまざまな教科のプリントや課題を律に頼ると蓮は怒鳴り散らすが、それでも律に声をかけることを辞めようとしない同級生たちもなかなか骨がある。律は変なところで感心して、英語のプリントを差し出した。
「はい。みんなで見た方が回すより早いんじゃない? んで、英語の時間前には返してよね」
「女子は! ダメだかんな!」
威嚇するように言う蓮に律は「気にしなくていいよ」と言い添えた。
「ねえ、蓮。なんでそんなに女子のこと嫌がるの?」
「だってあいつら別にプリントわかんねーんじゃないもん。律目当てだもん」
何気なく律が訊くと、蓮はふてくされたように答えた。
「僕目当て?」
「そ。だから女子禁止」
蓮は驚いている律を尻目に、ぶっきらぼうに言ってくる。十七にもなって律も蓮も彼女という存在があった経験はない。蓮はいつも律のそばにいるし、男女交際など興味がないのかと律は思っていたが、妙なところで感が鋭い……らしい。
「そっか。蓮が嫌ならそれでいいよ」
律はあっさりと言った。特に彼女という存在に興味がない。いたとしても迷惑にしかならないだろうと律は考えている。蓮が嫌がるのであれば余計に無駄な接触をしない方がいいと判断しただけだ。
けれど、蓮は律の一言でほっとしたように表情が緩む。普段はライオンのようなのに、律のこととなると急に大型犬のように見える時がある。
人懐っこいんだけどな、と律はふと蓮の印象を考えた。律といる時、家にいる時の蓮は大体人懐っこい。父にも修治にもほかの男衆にも可愛がられている。息子や末の弟といった印象だ。なのに、学校だとライオンのように時々周囲を威嚇する。
ふと、テリトリーの外に出たライオンなのか、と律は納得した。律といる時、家にいる時はテリトリーの範囲内だから蓮は誰も威嚇しない。けれど、学校はテリトリー外で蓮は無意識にライオンの素の姿になるのかもしれないと思った。ということは、蓮は外にいる時に誰にも気を許していないのか。蓮と一緒に暮らすようになってからの記憶を思い返してみるが、蓮はいつも律以外の誰かと積極的に遊ぶことはなかった。
「蓮ってさ……友達、いる?」
唐突にそんなことを律が訊くから、蓮は怪訝な顔で首を傾げた。
「トモダチ?」
「うん。トモダチ」
「いない。要らんし」
きっぱりと返事が返ってきて、律は思わず溜息をつきそうになった。
「それでいいの?」
「いいよ。律がいるもん」
相変わらず迷いのない返事にうっかり律は笑ってしまった。
「どーしたの、律。なんで笑ってんの」
「なんでもない。いや……ちょっと、安心したかも」
「なにそれ」
律がくったりと机に突っ伏して蓮を見上げると、大型犬のような笑顔が見えた。そうやって本物の兄弟よりも無条件にそばにいる蓮が、律の気持ちを軽くしているのは確かなのだ。
教室のざわめきをしばらく聞いていると、チャイムの音が鳴ってもうすぐ一限目が始まる合図がした。蓮が律の背中をぽんと叩いて席に戻っていく。背中がほんのりと温かい気がして、律は突っ伏した体を起こし、教科書と筆記用具を机に用意した。*****
午後の授業中。
律は窓側の席でぼんやりと外を眺めていた。天気がよくて、空が青い。まだ梅雨入り前でここ数年は一番過ごしやすい季節。グラウンドには体育の授業をしているクラスがいる。ふと、小学校低学年の頃に父と修治に連と一緒に武道をやらされたことを思い出した。
いま思えば、子どもの頃の律はよく体調不良を起こしており、病弱まではいかなかっただろうが昔気質の父のことだから体力をつけさせたかったのかもしれない。一緒にやっていた蓮は楽しそうにしていた。活発なのは六歳で一緒に暮らし始めてから変わっていない。武道の稽古自体、律は長くやらなかったが、蓮は今でも稽古をつけてもらいに自発的に行っている。稽古をしなくなった律は体調不良を頻繁に起こさない程度にはなっていた。
暴力団の家に生まれたからというよりも、律が生まれた時に母が亡くなり、律も体調不良を起こしやすい体質であったことを父が気にしたのかもしれない。
父は矛盾している。少なくとも律にはそう見える。
二人の息子を──律と蓮を溺愛する癖に、女癖が悪い。蓮のことを悪く思ったことはないが、父の愛人の子であることは間違いない。六歳の時に蓮を家に連れてきて以降も、父の女癖は変わらず時々修治がその尻拭いをしている。
ふう、と律は溜息をついた。
一般的な家庭環境とかけ離れすぎてて、普通の基準が狂っている。そんなことは今更なのだが、改めて実感すると気が重くなるのだ。そして、進路という目の前の難題が連鎖的に浮かび上がる。
──大学に行っても、根本的問題を先送りにしてるだけだ……。
律の憂鬱の根源はそこにある。父は好きにしていいというが、家業を継がなくてもいいという言葉ではない。律自身もそれを明確に拒否したことがない。なにがどうして嫌なのかはっきりしないのだ。
ただ、漠然とした拒否感だけが律の心を重くする。
気付いたら授業終了のチャイムが鳴っていて、律は視線を窓の外から教室に戻した。授業と授業の合間、教室は賑やかしくなっている。律は机の上のものをしまってしまい、立ち上がると蓮の席に近づいた。蓮は机に突っ伏したまま寝ている。
「れーん」
声をかけて、伸ばしっぱなしの髪の合間から覗く項を指で撫でると、脊髄反射のように飛び起きた蓮が驚いた声を上げ、恨めし気な視線を寄こしてきた。
「うわっ!? ……りーつー……その起こし方、やめてって言ってんじゃん。ビビるからさあ」
「ごめんね。でも、確実に起こせるからさ」
「律が起こすんだったらそんなんしないでも起きるじゃん? マジやめて」
確かに蓮は律が声をかけるだけで起きる。けれど、項を撫でてしまうのは蓮の反応が少しだけ面白いからだとは言わない。
「蓮。飲み物買いに行こ?」
「ん」
律が軽く誘うと蓮は当然のように立ち上がる。並んで教室を出て、一階の自動販売機で紙パックの飲み物を買う。律がオレンジジュースで、蓮は牛乳。そのまま教室には戻らずに屋上に行った。
「蓮さ……よく牛乳飲むよね? それ以上、背伸ばす気なの?」
くすりと笑って律が言うと、蓮は屈託なく笑う。
「背は別にー。あー……? なんか、骨、強くなりそう、みたいな?」
「蓮、そんなに強くなってどうすんの」
「律が困んないように」
何気ない蓮の一言に、律は柔らかく返事する。
「大丈夫だよ」
蓮が喧嘩っ早く、気が短いことは律が一番よく知っている。そして蓮の逆鱗が律に起因することも。
屋上の日陰に座り込んで、オレンジジュースと牛乳を飲みながらただぼんやりとしている。始業のチャイムが鳴ったが、律も蓮も気にしなかった。時々、こうして律は授業をサボる。一人で行動できない訳ではないが、いつも蓮と一緒に。
天気のいい屋上は風が気持ちいい。蓮はいちいちサボる理由も聞かない。
風が蓮の茶色い癖っ毛を揺らすと律は思わず見てしまう。制服の下に隠された筋肉のしなやかさ、無造作に伸ばしっぱなしの髪から垣間見える項、武骨な手。一緒に育ったのに随分と差があるとおかしくなる。
ぱたりと律はコンクリートの床に仰向けになって呟いた。
「天気いいなー……海、行きたい……」
なんの脈絡もなく、思ったまま零れた言葉が届いたのか、蓮は律を振り返って「行こっか」と返事してくる。相変わらずタイムラグさえない。
「このまま行っちゃう? 海。どうせサボってんだし。俺も行きてー」
「れーんー……本気にしないでよ。……なんとなく、言ってみただけだから」
「なんだー行かないのか」
苦笑しながら律が蓮の先走りを制すると、蓮はあっさり引くが、少し残念そうだった。
現実的に海に行くには少し距離が遠く、更にそれをただ海が見える場所ではなく海岸があるところに限定すると更に難易度は上がる。それだけの話なのだが。
律が仰向けに大の字になったままでいると、蓮はしばらくして背中を見せ、ふわりと鼻歌を歌い出した。ムーン・リバー。蓮が鼻歌で歌う曲のうちの一曲だ。ゆっくりと歌う低く囁くような歌声が、律には心地いい。英語の成績がいい訳ではない。蓮の鼻歌は英語の歌ばかりで、律が初めて会った時から変わらない。──蓮の母が歌っていたのだといつか聞いたことがある。
屋上の、天気のいい青空に吸い込まれそうに囁いて消えていくような歌声。やけにきれいな発音。時々吹く風が気持ちよくて、律は眠気に誘われる。
「どうしてって、律。お前なぁ……」 父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」 パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」 父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」 律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。 普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。 それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。「……けったくそ悪い話やぞ……」 苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」 感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知ってい
がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。 帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。 律、どこいんの? 立ち聞きしてねーって 待ってただけ なあ、律? シカト? 怒ってんの? どーして? 全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」 なにも持たない身一つで。 心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。 冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、 まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。「探さなきゃ。……探して……」 それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。
帰宅すると律は自室にこもって頭を抱えた。 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔が襲ってくる。ちゃんと蓮と普通に接することができると思った矢先なのだ。完全に律の八つ当たりで、蓮に非はないのに勝手に立ち聞きだと決めつけて怒鳴り散らした。律は蓮がどんな顔をしていたのかも見ていない。好きだと思う。大事だと思うのに、自覚するほど上手くできない。 気持ちは本当なのに、嘘をついている様な感覚が拭えない。 何度も蓮が壊れてしまう前に戻りたいと修復を試みているのに失敗してしまう。一度壊れてしまったら同じには戻れないのだろうか。割れた茶碗を直しても金継ぎの跡が残ってしまうように、なにもかも元通りなどというのは都合が良すぎる願いなのか。「このままじゃ……蓮に嫌われる」 呟いた言葉は想像以上に現実味を帯びて律を震わせた。 いままで例え些細な喧嘩をしてもすぐに仲直りしていたが、律がこのままではいくら蓮でも我慢の限界が来るだろう。その果てにあるのは、蓮のいない世界。六歳から数えて十一年、ずっと一緒にいた分、律には蓮のいない世界など想像もつかない。父や修治がずっといたのと同じく、律の世界に蓮は存在していることが当然で当たり前すぎた。それが自分の身勝手で失うとしたら、恐ろしすぎる。「それは……駄目。ちゃんとしなきゃ。普通に、しなきゃ」 律が小さくなって頭を抱えている間に放りだしたかばんのポケットからはみ出したスマホの画面が明るくなり、通知を知らせていたが音声を切ったままで律は気付きようもなかった。 しばらくして部屋の木戸が遠慮なしにがらりと開けられ、驚いて律は顔を上げた。肩に引っかけたかばんを放り投げ、蓮がずかすかと律に近寄り、しゃがみこんで近い距離を詰めてくる。それだけで律は緊張してしまい、混乱する。なにか言わなくてはならないと思いながら、言葉が出てこない。「なあ、律。俺、なんかした?」 普段よりも低い蓮の声。かばんを放り投げた仕草に滲む苛立ち。「して、ない。ごめん……八つ当たり、した」「そんだけじゃねえよなー? 別に八つ当たりなんてどーでもいいんだよ。最近の律、変。だから、俺、なんかしたんかなって訊いてんの」「してない。蓮はなにもしてない。僕が悪いだけだから」 少しでも距離を取ろうとしても律の背中はベッドでどうにもならない。蓮の真っ直ぐな視線が
──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。 けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに? いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。 律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。 恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。 そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。 恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。 これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。 律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」 ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。 そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、 手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。 単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱
「ただいまっ」 普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。 かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。 蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!! いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。 舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。「ううー……」 ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。 律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。 律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」 ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」「なにしたかわかってんの!?」「傷、血ィ出てたから舐めようとした」 怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は
「……あ。またやっちゃった」 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多くなった。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま蓮の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。***** 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。 胸の奥のぐちゃぐちゃが







