LOGIN朝、律は六時半にセットした目覚ましで起きる。
進路の問題が表面化した頃から多少寝起きは悪くなったものの、基本的に一度のアラームで目を覚まし、寝巻のまま部屋を出て離れのキッチンでグラスに水を注ぎ、そのまま縁側で水を飲みながらしばらくぼんやりとする。そうしていくうちに体が新鮮な空気に満たされて脳みそが覚醒していく。そんな習慣を十三歳くらいから続けている。早起きをして筋トレをするわけでも朝活をするわけでもなく、ぼんやりしているだけで、父には「爺みたいだ」と言われ、蓮には首を傾げられるが、律にはこの習慣がすっかり馴染んでしまっている。唯一、修治だけが「いい習慣です」と言った意味は、律にはまだわからない。
七時を過ぎた頃に律は縁側から立って、水を飲んだグラスを片付け、蓮を起こしに行く。──蓮は律が起こしに行かないと起きない。
からりと蓮の部屋の戸を開けて、頭まで布団をかぶって眠っている蓮のベッドの端に腰かけて律は少し笑う。
「れーん、朝だよ。起きて」
いつものように布団の上からぽんぽんと蓮の肩辺りを叩く律の声は柔らかだ。丸まった布団の塊がもぞもぞと動いて、寝ぐせだらけの伸ばしっぱなしの癖っ毛が半分顔を隠した蓮が顔を出すが、まだ寝ぼけているのもいつものことだ。
「やだ……まだねみー……」
「いいから起きて。朝ごはん、間に合わなくなるよ。朝から父さんに小言言われんの嫌でしょ?」
「それは……めんどー……」
まだはっきりと覚醒しないまま、蓮は律の声に半分自動で反応するように起き上がった。大きなあくびをして、いまにも布団に逆戻りしそうだが蓮は普段から活発なだけあって起き上がりさえすれば大丈夫なことを律は知っている。
律はすんなりと蓮のベッドから立ち、部屋を出ていく。「あとでね」と言い残して。
それから律は洗面所に直行し、顔を洗い、歯磨きをし、自室に戻り制服に着替える。スマホの充電とかばんの教科書類を確認して身支度が終わるころには蓮も着替えを済ましている。玄関を通るには母屋を経由するからかばんを肩にかけ、部屋を出るとちょうどいいタイミングで制服に着替えた蓮がいた。
並んで母屋に向かい、外廊下に面した食堂──和室の大きな座卓で父と律と蓮を含めて十人以上の黒瀬家の住人が食事をする場所なので、食堂という表現の方が的確だと律は思っている──に入ると、数人の男たちが座卓に料理を並べていて、何人かが席について雑談をしている。父は上座におり、律の定位置は父の脇で、その隣は蓮だ。
席順には暗黙の了解のように、いくつかだけ決まりごとがある。修治がいる時は、律の対面は修治になる。いない時は特に決まっていないが、時々、父が誰かを名指しして近くに呼ぶこともある。別に込み入った話をするわけでも説教をするわけでもなく、大家族の父が普段構ってやれない子どもと交流を深めるのと似た類のものだ。
「おう。おはようさん」
父は律と蓮が席に着いたのに気付くといつも通りに声をかけてくる。
「おはよう」
「おはよー」
律は正座して、蓮は足を崩したまま座って返事をすると、父は満足そうだ。この父は豪快そうに見えて、意外と面倒くさい。朝、出かける時、帰宅時、食事などの挨拶をしないだけで怒鳴り声が飛んでくる。決して礼儀作法が正しいとは言えないが、そんなことに口うるさいのは家業の影響かと律は邪推してしまう。
この日の朝食は焼き鮭、だし巻き卵、ほうれん草の胡麻和え、豆腐とわかめの味噌汁、白米。律の分だけ、父や蓮、ほかの者たちよりもやや量が少ない。男所帯で血の気が余っている者が多いせいか、黒瀬家の食事は毎回ボリュームがあり、律には多すぎる。かといって、食事を残すことを嫌う律は物心ついたころから「多すぎるから少なくして」と言っている。
食事量が少ないから細く、身長も蓮に抜かされるのだなどと父が揶揄ったこともあったが、律は気にしていない。元々、律は蓮よりも運動を好まなく、単に性質の違いだと思っている。
食卓に食事が行き渡り、全員が腰を落ち着けたところで父が「いただきます」というと「いただきます」が響き渡る。朝から賑やかしい。そんな食事が律にとってはずっと当たり前だ。
「若! 今日の晩メシ、なんか食いたいもんありますか?」
静かに律が食事をしていると、対面の下座の方からふと声をかけられた。夕食のメニューの希望はよく聞かれるから珍しいことではない。肉料理がメインになるのは当たり前で、野菜も食べたがる律に自然と声がかかる。
「そうだな……筑前煮、とか?」
少し考えてから律が答えると、下座の方がにわかに賑やかになる。大方、買い物リストでも話し合っているのだろう。──随分とのんびりしているが、彼らは暴力団の構成員である。
食事時は気が抜けるな、などと思いながら律は豆腐とわかめの味噌汁を啜った。きちんと出汁を取ってあり、煮詰め過ぎず味噌の風味がいい。一人暮らしなどができない訳でもないのに、どうして態々住み込みで家政婦のようなことまでしているのだろうと、やはり律には不思議でならない。
「律さぁ、メシ食ってる時にしかめっ面すんのやめよーよー」
両手に味噌汁の椀を持ったままでいると、隣の蓮が手を伸ばしてきて眉間を伸ばしていった。
「……そんな顔、してた?」
「うん。メシくらい美味しく食お?」
「……ん」
律が短く返事をすると、蓮は持ち直した箸を焼き鮭に伸ばす。蓮の食べっぷりは豪快で見ていて気持ちがいい。くすりと笑って、律も椀を置き、食事を再開した。
食後の茶をゆっくりと飲んで、八時半。律と蓮は学校へと向かう。
「ごちそうさま」をして、背中に置いたかばんを取り上げ「行ってきます」と言って玄関に向かう。父や男衆が異口同音に「行ってらっしゃい」を投げてくる。それが律と蓮の朝の日常。*****
九時過ぎ。学校についたらついたで、それはまた騒がしくなる。
律と蓮が教室に入ってそれぞれの席にかばんを置くと、蓮は始業の鐘が鳴るまで律のそばで何気ない雑談を始める。それを心地よく聞きながら時々返事をしていると、勢いよく横槍が入ってくる。
「黒瀬ぇ! 昨日の英語のプリント見せてぇっ!」
「あー! 待て、それ俺も! 俺も見せてほしいっ!」
「ねえ、それ私もいい?」
口々に律に群がってくる同級生たちはいつものことだ。
「あーもう、お前ら朝からうるせえな! 律に群がるな!」
かばんの中から英語のプリントを探している律にお構いなく蓮が一番やかましく怒鳴り散らすのも、普段通りだ。毎回、同級生たちがさまざまな教科のプリントや課題を律に頼ると蓮は怒鳴り散らすが、それでも律に声をかけることを辞めようとしない同級生たちもなかなか骨がある。律は変なところで感心して、英語のプリントを差し出した。
「はい。みんなで見た方が回すより早いんじゃない? んで、英語の時間前には返してよね」
「女子は! ダメだかんな!」
威嚇するように言う蓮に律は「気にしなくていいよ」と言い添えた。
「ねえ、蓮。なんでそんなに女子のこと嫌がるの?」
「だってあいつら別にプリントわかんねーんじゃないもん。律目当てだもん」
何気なく律が訊くと、蓮はふてくされたように答えた。
「僕目当て?」
「そ。だから女子禁止」
蓮は驚いている律を尻目に、ぶっきらぼうに言ってくる。十七にもなって律も蓮も彼女という存在があった経験はない。蓮はいつも律のそばにいるし、男女交際など興味がないのかと律は思っていたが、妙なところで感が鋭い……らしい。
「そっか。蓮が嫌ならそれでいいよ」
律はあっさりと言った。特に彼女という存在に興味がない。いたとしても迷惑にしかならないだろうと律は考えている。蓮が嫌がるのであれば余計に無駄な接触をしない方がいいと判断しただけだ。
けれど、蓮は律の一言でほっとしたように表情が緩む。普段はライオンのようなのに、律のこととなると急に大型犬のように見える時がある。
人懐っこいんだけどな、と律はふと蓮の印象を考えた。律といる時、家にいる時の蓮は大体人懐っこい。父にも修治にもほかの男衆にも可愛がられている。息子や末の弟といった印象だ。なのに、学校だとライオンのように時々周囲を威嚇する。
ふと、テリトリーの外に出たライオンなのか、と律は納得した。律といる時、家にいる時はテリトリーの範囲内だから蓮は誰も威嚇しない。けれど、学校はテリトリー外で蓮は無意識にライオンの素の姿になるのかもしれないと思った。ということは、蓮は外にいる時に誰にも気を許していないのか。蓮と一緒に暮らすようになってからの記憶を思い返してみるが、蓮はいつも律以外の誰かと積極的に遊ぶことはなかった。
「蓮ってさ……友達、いる?」
唐突にそんなことを律が訊くから、蓮は怪訝な顔で首を傾げた。
「トモダチ?」
「うん。トモダチ」
「いない。要らんし」
きっぱりと返事が返ってきて、律は思わず溜息をつきそうになった。
「それでいいの?」
「いいよ。律がいるもん」
相変わらず迷いのない返事にうっかり律は笑ってしまった。
「どーしたの、律。なんで笑ってんの」
「なんでもない。いや……ちょっと、安心したかも」
「なにそれ」
律がくったりと机に突っ伏して蓮を見上げると、大型犬のような笑顔が見えた。そうやって本物の兄弟よりも無条件にそばにいる蓮が、律の気持ちを軽くしているのは確かなのだ。
教室のざわめきをしばらく聞いていると、チャイムの音が鳴ってもうすぐ一限目が始まる合図がした。蓮が律の背中をぽんと叩いて席に戻っていく。背中がほんのりと温かい気がして、律は突っ伏した体を起こし、教科書と筆記用具を机に用意した。*****
午後の授業中。
律は窓側の席でぼんやりと外を眺めていた。天気がよくて、空が青い。まだ梅雨入り前でここ数年は一番過ごしやすい季節。グラウンドには体育の授業をしているクラスがいる。ふと、小学校低学年の頃に父と修治に連と一緒に武道をやらされたことを思い出した。
いま思えば、子どもの頃の律はよく体調不良を起こしており、病弱まではいかなかっただろうが昔気質の父のことだから体力をつけさせたかったのかもしれない。一緒にやっていた蓮は楽しそうにしていた。活発なのは六歳で一緒に暮らし始めてから変わっていない。武道の稽古自体、律は長くやらなかったが、蓮は今でも稽古をつけてもらいに自発的に行っている。稽古をしなくなった律は体調不良を頻繁に起こさない程度にはなっていた。
暴力団の家に生まれたからというよりも、律が生まれた時に母が亡くなり、律も体調不良を起こしやすい体質であったことを父が気にしたのかもしれない。
父は矛盾している。少なくとも律にはそう見える。
二人の息子を──律と蓮を溺愛する癖に、女癖が悪い。蓮のことを悪く思ったことはないが、父の愛人の子であることは間違いない。六歳の時に蓮を家に連れてきて以降も、父の女癖は変わらず時々修治がその尻拭いをしている。
ふう、と律は溜息をついた。
一般的な家庭環境とかけ離れすぎてて、普通の基準が狂っている。そんなことは今更なのだが、改めて実感すると気が重くなるのだ。そして、進路という目の前の難題が連鎖的に浮かび上がる。
──大学に行っても、根本的問題を先送りにしてるだけだ……。
律の憂鬱の根源はそこにある。父は好きにしていいというが、家業を継がなくてもいいという言葉ではない。律自身もそれを明確に拒否したことがない。なにがどうして嫌なのかはっきりしないのだ。
ただ、漠然とした拒否感だけが律の心を重くする。
気付いたら授業終了のチャイムが鳴っていて、律は視線を窓の外から教室に戻した。授業と授業の合間、教室は賑やかしくなっている。律は机の上のものをしまってしまい、立ち上がると蓮の席に近づいた。蓮は机に突っ伏したまま寝ている。
「れーん」
声をかけて、伸ばしっぱなしの髪の合間から覗く項を指で撫でると、脊髄反射のように飛び起きた蓮が驚いた声を上げ、恨めし気な視線を寄こしてきた。
「うわっ!? ……りーつー……その起こし方、やめてって言ってんじゃん。ビビるからさあ」
「ごめんね。でも、確実に起こせるからさ」
「律が起こすんだったらそんなんしないでも起きるじゃん? マジやめて」
確かに蓮は律が声をかけるだけで起きる。けれど、項を撫でてしまうのは蓮の反応が少しだけ面白いからだとは言わない。
「蓮。飲み物買いに行こ?」
「ん」
律が軽く誘うと蓮は当然のように立ち上がる。並んで教室を出て、一階の自動販売機で紙パックの飲み物を買う。律がオレンジジュースで、蓮は牛乳。そのまま教室には戻らずに屋上に行った。
「蓮さ……よく牛乳飲むよね? それ以上、背伸ばす気なの?」
くすりと笑って律が言うと、蓮は屈託なく笑う。
「背は別にー。あー……? なんか、骨、強くなりそう、みたいな?」
「蓮、そんなに強くなってどうすんの」
「律が困んないように」
何気ない蓮の一言に、律は柔らかく返事する。
「大丈夫だよ」
蓮が喧嘩っ早く、気が短いことは律が一番よく知っている。そして蓮の逆鱗が律に起因することも。
屋上の日陰に座り込んで、オレンジジュースと牛乳を飲みながらただぼんやりとしている。始業のチャイムが鳴ったが、律も蓮も気にしなかった。時々、こうして律は授業をサボる。一人で行動できない訳ではないが、いつも蓮と一緒に。
天気のいい屋上は風が気持ちいい。蓮はいちいちサボる理由も聞かない。
風が蓮の茶色い癖っ毛を揺らすと律は思わず見てしまう。制服の下に隠された筋肉のしなやかさ、無造作に伸ばしっぱなしの髪から垣間見える項、武骨な手。一緒に育ったのに随分と差があるとおかしくなる。
ぱたりと律はコンクリートの床に仰向けになって呟いた。
「天気いいなー……海、行きたい……」
なんの脈絡もなく、思ったまま零れた言葉が届いたのか、蓮は律を振り返って「行こっか」と返事してくる。相変わらずタイムラグさえない。
「このまま行っちゃう? 海。どうせサボってんだし。俺も行きてー」
「れーんー……本気にしないでよ。……なんとなく、言ってみただけだから」
「なんだー行かないのか」
苦笑しながら律が蓮の先走りを制すると、蓮はあっさり引くが、少し残念そうだった。
現実的に海に行くには少し距離が遠く、更にそれをただ海が見える場所ではなく海岸があるところに限定すると更に難易度は上がる。それだけの話なのだが。
律が仰向けに大の字になったままでいると、蓮はしばらくして背中を見せ、ふわりと鼻歌を歌い出した。ムーン・リバー。蓮が鼻歌で歌う曲のうちの一曲だ。ゆっくりと歌う低く囁くような歌声が、律には心地いい。英語の成績がいい訳ではない。蓮の鼻歌は英語の歌ばかりで、律が初めて会った時から変わらない。──蓮の母が歌っていたのだといつか聞いたことがある。
屋上の、天気のいい青空に吸い込まれそうに囁いて消えていくような歌声。やけにきれいな発音。時々吹く風が気持ちよくて、律は眠気に誘われる。
修治に相談した足でそのまま父に進路を決めたことを告げた後、律は父に茶化される前に早々に一度離れの自室にノートを戻し、食堂へと戻った。食堂では今日も何人かの子どもたちが集まって賑やかにしている。その中に混ざった蓮が一番騒がしい。そんな姿を見て、律はほっとした。──このままいて欲しい。起点が蓮だとしても、律の願いは案外シンプルなのだ。だからこそ、難しくもある。***** 夕食を終えて律と蓮が離れに引き上げ、蓮の部屋に落ち着く前に律は自室から昼間に修治と父に見せたノートを取ってきた。律が蓮に自分の気持ちを伝えるのはまだ早いと止めていた理由はほとんど解消した。高校卒業後の進路の確定。家業を継ぐことへの意思表示。その上で自分がしたいと思っていることの主張。 大学進学に関しては、最初から一時的な現実逃避にしかならないと考えていた。いずれ、家業は継がなければならない。暴力団という組織に与えられた一般的イメージから律の嫌悪は生まれたが、春から夏にかけて色々なことがあり、いままで律が気付いていなかった面を垣間見、考えることができた。蓮の過去に関しては、正直なところもっと穏やかな形で知りたかったと思わなくもないが、律自身が迷い、間違いを繰り返しながら関係を修復できたことは律の進路に対する方向性を決定づける要因の根源となったことは間違いない。蓮が進路のことを訊いても「律の行くところ」と迷いもなくすんなり答えるのと、律が散々考え抜いて決めた挙句に出した答えが似たり寄ったりなことに関しては性質の違い上仕方ないのだが、結果的には律にはその回り道が必要だったのだ。「蓮。考え事、終わった」 並んで座って、ぺたりと蓮に寄りかかったまま律は率直に言って、手にしていたノートを蓮の膝の上に置いた。この先、律がどうしたいかがそのノートには全て書かれている。もちろん、蓮にも知って欲しいと思ったのだ。元々、律は蓮に隠し事をしない。考え事をしている時だけ、頭の中の整理を兼ねてノートに散々書き散らし、終わるとノート自体は隠す気もない。蓮もどこか律が考え事を纏めたノートを見ることを楽しみにしている節がある。「んー?」 膝の上に置かれたノートをぱらりとめくる蓮に、律は恥ずかしさを感じ並んだ体の向きを変えた。少しだけ蓮に寄りかかっている面が背中に移る。「りーつー。いままでで最高のびっしり度なんじゃね?
うーん、と唸りながら律は蓮の部屋のベッドでうつ伏せになってノートにメモ書きをしながら頭を悩ませていた。 蓮はオンラインゲームのレイド戦の真っ最中で、ボイスチャットをオンにしたまま時々スラング英語で喚いている。鼻歌を歌う時といい、オンラインゲームのボイスチャットといい、なぜか蓮は学校の英語の成績がいい訳ではないのに発音はきれいだしコミュニケーションも取れてしまう。ぱたりと顔をノートに伏せて律は賑やかにしている蓮の声を聞く。「Incoming! I got him!! Aaaaaah!!」 深夜帯のオンラインゲームになると野良でレイドバトルに参加し、臆面もなくすんなりとその場限りのプレイヤーとボス戦を繰り返しては楽しそうにしている蓮の声を聞いていると、律は素直に凄いなと思う。恐らく武道と同じで文法や単語よりも体感で覚えて実践でなんとかなってしまうタイプなのだ。英語の発音がいいのは蓮の母親が英語の歌を歌って聞かせていた影響もあるかもしれない。「let's gooo!! gg ez!」 ふふん、と得意げにしている声を聞くに、蓮はボスを仕留めたらしい。 ようやく律は突っ伏していた顔を上げた。蓮が好きなゲームの画面を見ていると、律は時々画面酔いをしてしまい気持ち悪くなり、できるだけ見ないようにしている。「蓮、今日もお手柄?」「もちろーん」 ベッドの上から律が声をかけると、蓮が律を振り返って上機嫌で返事する。戦闘終了画面のまま両手に持っていたコントローラを手放して、ベッドにぺたりと寄りかかる蓮に律は片手を伸ばして茶色い癖っ毛をわしゃわしゃと撫でる。……本当に大型犬だったらどうしよう、などと律はふと笑う。ゲームのボス戦で手柄を立てたから偉いでしょ。だから撫でて。返事したときの蓮がそんな風に律を振り返ったように思えたのだ。「蓮ってさ、警戒心とかある?」 ふと律が蓮を撫でながら訊くと「あるよー」と全く警戒心を感じさせない緩い声が返ってきた。言葉と声音が一致していなくて思わず律は本当か? と疑いそうになる。「もし仮に、僕がこうやって蓮のこと撫でたまま、いきなり殴ったりとか……考えたことないの」「ない。律はそんなことしないもん」 きっぱりと言い切られてしまうと律はなにも言い返せなくなり、蓮を引き寄せて両手でぎゅっと抱いた。「うん。しないよ」 どうしてそん
夏休みの間、律は普段より長い間起床後、離れの縁側で考え事をし、その後は蓮を起こして朝食の後は休みだというのに昼間黒瀬家に入り浸る子どもたちと一緒に過ごすことが多い。時々、蓮と二人で町中華を食べに行ったり買い物をしたりと出かけもする。 子どもたちと言っても小学生から上は律と蓮と同じく高校生まで幅が広い。中学生や高校生ともなると言うこともほぼ同年代のレベルになるが、学校のクラスメイトだと女子を律から遠ざける蓮はなぜか黒瀬家に入り浸る不登校児には威嚇しない。むしろ不思議なくらい馴染んで一緒にはしゃいですらいる。 夏休みの間、黒瀬家に入り浸る子どもたちは顔ぶれがくるくると入れ替わるが、中に律が知っている中で毎日くる子がいた。まだ小学校中学年か高学年かの痩せた女の子。無口で、あまり誰とも喋らず、いつも隅で膝を抱えて静かに本を読んでいる。普段の律は学校に行っている間に子どもたちが帰ってしまうため、事情に詳しくないが、なぜかその子どもが気になっていた。 盆が終わり、八月も下旬に差し掛かったある日。珍しく昼間黒瀬家の食堂で賑やかしく遊ぶ子どもが少なく、年齢もばらばらな子が五人ほどしかいなかった。そして、その日もその痩せた女の子は部屋の隅で本を読んでいた。他には同じく小学生が二人、中学生と高校生が一人ずつ。中学生と高校生は両方とも女の子で話に熱中しており、二人の小学生は蓮が一緒に庭で遊んでいた。 律は痩せた女の子がどうしても気になり、そっと近づいてしゃがみこんだ。「ねえ、隣にいてもいいかな」 怖がらせないように、と内心びくびくしながら律は女の子に声をかけた。祭りの屋台に遊びに来る子どもたちとは雰囲気が違う。無邪気な人懐っこさがなく、子どもに慣れている律でも慎重になってしまう。いつも一人で部屋の隅で一人で本を読んでいて、無口で、ほとんど誰とも喋らないのに毎日来る子ども。どこか矛盾を感じる。 女の子は顔を上げてこくりと頷いて、また視線を本に移した。一瞬だけあった目が、子どもなのに無気力で律はぞくりとする。その目を律は知っている。律と父が蓮に怒鳴り散らし、傷を抉ってしまった時の虚ろさに似ていた。 隣に座り込んだはいいが、律はどう彼女に話しかけていいのか会話の糸口が見つからない。女の子は律がいることには頷いたが、そのまま本を読んでいて話をする意思はなさそうだ。無理に話しか
蓮が安静を言い渡された一週間はあっという間に過ぎて、その後の検査でも異常はなく、晴れて自由の身となり律はほっとした。家出騒ぎ──なのか、逃走劇か──の後、数日間だけ蓮の様子はぎこちなかったが、揶揄いこそするものの誰も蓮を責めなかったのもあってか、安静中の一週間のうちに普段の調子に戻っていた。ただ、ひとつだけ蓮には不満が残った。週末の朝稽古で許可が出るまで先制を封じられたのだ。手合わせの際に癖で先制攻撃をしてしまった場合、稽古後の道場の床掃除がペナルティ。「りーつー……先制禁止とかもうキッツイんだけどー!」 二週目の朝稽古の後、蓮は勢いよくモップを手に走り回りながら文句を言ってきた。「んー、それはさあ、蓮の自業自得? だよね。間が悪かったとはいえさ。ちゃんと反撃も防御もできるのにしなかったから。あー。あと、蓮ってさ、手合わせだと先制取って相手を自分のペースに巻き込むじゃん。だから、みんなからしたら先制禁止にしないと、蓮に反撃と防御を叩き込めないって言うか……」 ペナルティの床掃除中の蓮に向かって律は考えながら返事した。掃除中の蓮の邪魔にならないよう、律は道場の入り口のところで戸口に背を預けている。蓮が早く掃除を終わらそうとモップがけをしながら「ええー!」と抗議を示した。「僕はあまりそういうのわかんないけど、何度もそういう条件でやってたら体が覚えるっていうじゃん。付け焼刃かもしんないけど、蓮に同じ目にあってほしくないんだよ」「……」 基礎の部分だけ習得した後は向いていないからとやめてしまった律に言われた蓮は無言になった。優劣の問題ではなく、そもそも先制を封じられた理由を蓮自身も自覚しているからだろう。 なにも考えてなかった、と父に説教された時に答えた言葉は間違いなく蓮の本心だ。それだけ自暴自棄になった蓮には危害に対する防御も反撃も無意味になってしまうことが既に立証済みなのだから、先制を封じて反撃と防御を叩き込もうとしているのだろう。元々、運動神経も反射神経も優れていて飲み込みが早かった分、ここまでゲームのように得意な部分だけを楽しむように伸ばしてきた蓮が不服に感じるのは仕方ない。「じゃあさ、蓮。僕と一本やってみる?」 ふと律が思いついて言うと、モップを掛けて走り回っていた蓮がぴたりと止まった。「は? マジ言ってんの?」「嘘ついてどうすんの」
朝になって蓮は院長から簡単な問診を受けると、帰宅の許可が下りた。その後、修治が蓮の着替えを持ってきた。普段と変わらない様子で着替えの入った袋を渡し「準備ができたら帰りますよ」とだけ言った修治に、蓮は少し迷ったように俯いて唇を噛んでいたが、思い切ったのか勢いよく頭を上げた。「修治! 昨日は……ごめん」 バツの悪そうな顔をしている蓮を振り返った修治は、顔色一つ変えずにあっさりと返事した。「私は仕事を遂行しただけです。謝罪する相手が違うでしょう、蓮」 それだけ言い残して修治は病室を出ていった。恐らく、廊下で蓮の帰り支度を待っているだろう。「……修治、こえー……」 受け取った袋を抱えて蓮はぐったりとへたりこんだ。律は蓮の様子に笑いそうになってしまう。いままでも、律や蓮が一般的に叱られるようなことをしても修治は一切の謝罪を受け取らない。窘められることはあっても「ごめんなさい」を受け入れてもらえない。蓮も修治の態度にはなれているはずだが、今回はさすがに近くで修治の実務を見ていた分、律は少しだけ修治も根に持っているだろうなと邪推してしまう。「ほら、蓮。着替えて帰ろ」「帰ったら、親父にも説教されんだろ? いーやーだー……」「連も、ちゃんと父さんに言ったらいいよ。僕に言ったのと同じこと。父さんだって理由もなく頭ごなしにお説教しないし」 律がフォローのつもりで蓮を促すと、ベッドに座ってぐったりとしていた蓮が恨みがましそうな目で見上げてきた。「それさー、俺がなんか言っても火に油じゃん? バカか、って言われて余計説長くなんじゃん」 それも確かにそうだ、と律は思ったが、口にした言葉は違った。「でもさ、やっぱ言った方がいいんじゃないかな。僕は蓮がちゃんと話してくれたから納得したし、いま蓮がまだ少し怖がってんじゃないかなって思うけど、言わないとわかんないよ。父さんなんてただでさえ勢いだけで生きてるような人なんだから、話さないと伝わんないよ。だから、親子喧嘩、すればいいじゃん」 ふふ、と律は笑う。律は蓮の本当の父親を知らない。知りたいとも思わないが、六歳から一緒に育って蓮の方がよほど父の子と言われても不思議ではないほど似ているところがあると思う。直情的で勢い任せなところ、声が大きいところ、不器用なところ。上げたらきりがない。修治の言うように、蓮が母親似の部分はたくさ
蓮は病室で病衣に着替えさせられて眠っていた。着ていたものは丁寧に畳まれているが、血痕や汚れが酷く律は思わず目を背けた。備え付けの簡素な椅子をベッドの脇に引き寄せ、消灯後の暗い病室に読書灯だけが灯る中で腰を下ろしてしばらくじっと蓮の寝顔を見ていた。 体の至る所に包帯やガーゼの処置さえなければ、いつもと同じく眠っているように見える。痛みに苦しんでいる様子も、悪夢にうなされている様子もない。──でも、蓮は目を覚ましたらどんな反応をするだろう? 律にはそれが気がかりだ。 父は荒い気性ゆえに蓮を殴って目を覚まさせろだなどと言う。律にも今回ばかりは一発くらいは殴ってしまいたい気持ちはある。けれど、生来の乱暴を好まない性質と、いまだ自責してしまう不器用さが簡単に手を上げる判断に至らない。そもそも、殴るという暴力を行使してもなんの解決にもならない。状態の悪化すら考えられる。好きなのに、手を上げるなんておかしい。 ふと、思いついて律は蓮の片手を布団からそっと出すと、背中を丸めて両手で包んだ。 まだ、蓮が黒瀬家に引き取られたばかりの頃、よく手を繋いだまま同じ布団で眠っていた。一人寝に慣れていないのは蓮の方だったのだ。六歳とはいえ母を亡くしたばかりで、表面上の悲壮感は薄かったが、夜になると寂しさで押し潰されそうになり「りつ……」と枕を抱えて布団に潜り込んできていた。そんなことを律は思い出した。 家の者たちから追いかけられ、逃げ回った蓮の本意はわからない。だが、蓮は大きな勘違いをしたままだということだけは確かだ。自分に対して疑心暗鬼のまま。その内側は不安と寂しさに満ちているのだろう。蓮はもう、律を受け入れないかもしれないが、律にも譲れない気持ちがある。だから、目が覚めるまででも伝う温度が少しでも蓮の心を癒せばいい。「蓮が、怖くない場所を僕が作れたら、まだここにいてくれるかな」 ぽつりと律は呟く。 暗い病室で読書灯だけが頼りの中、呟いた声はやけに大きく響いたように感じた。頼りない明かりに浮かぶ蓮は眠ったままで律の独り言には返事をしない。 ──優しい場所。そんな風に律は初めて自分の家のことを認識した。粗暴さはあっても、理不尽な暴力はない。蓮が出て行くといって飛び出したと知れば、理由など聞く前に誰もが探すことに必死になる。困っている、弱い立場の人間に無尽蔵に手を伸ばしてしま